山田乗男がアナログ派というのなら、私は、超アナログ派と言わざるを得ない。

 私が、超アナログ派というのなら、丹下は、超弩級のアナログ派と言うべきであろう。

 登録されていない漢字がある場合、私には、それを手書きで入力して登録させる技術があるが、丹下は、そこだけカタカナで書いて、管理人に「漢字に直せ」と指示するからである。

 我われが何気なく発する「デジタル」とか、「アナログ」という言葉が、そもそも和製英語であることは知られていないだろう。

 この言葉は、1950年代に京都大学工学部の学生によって作られた。

 結果的にコンピュータ分野においてはアメリカに遅れをとったが、その頃の京大生は、世界の嚆矢たらんと、懸命に研究をしていたのだ。

 ある研究室で、雑談中に生まれたのである。「デジタル」とは、「出自、至る」の略。

 出自を「でじ」と読ませた洒落だ。

 どんな状態でも、それを数量化し、曖昧さを回避しようという概念で、つまり、突き詰めれば「出自(しゅつじ)がはっきりする」という意味が元になった。

 履歴のはっきりしない、どこの馬の骨か分からないものへは対応しない。

 いっぽう、「アナログ」とは、「穴の具」が転化した言葉。

 穴の具とは、要するに「糞」のことである。

 排泄物という無駄なものにも、意味を持たせようと考えられた。

 どこの馬の骨か分からないものにこそ意味があるという概念である。

 これらは、こうしたユーモアから生まれた言葉だったのだ。

 たとえば、本を求めようとする。

 デジタル派は、曖昧さを回避しようとするので、あらかじめ出自を求めて(書名を確認して)、その本だけを買いに本屋へ行く。

 アナログ派は、とりあえず本屋へ行く。

 立ち読みしながら(無駄な時間を送りながら、また、買わない本でも周辺情報を仕入れながら)、自分にとって買うべき本を探そうという行為をとる。

 だから、デジタル派がいいとか、アナログ派が悪いとか、そういうことではない。

 「曖昧さ」や「無駄」に価値を求めるか否か、ということにすぎないのである。

 よって、丹下もヘコむ必要はない。

 無駄な人間にも、生きていく価値があるのだ。

 という前提を踏まえて、1998年の今週は、7月6日(月)〜12日(日)でしたって、どういう前提なんだ、オイ。

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